【静岡・沼津】奥和の干物の物語
- FUSAKO SAKURAI

- 9月27日
- 読了時間: 7分
更新日:10月26日
本当に美味しいひものとは、どのように作られるのか?
奥和のひものを、子どもの頃から、35年近く食べ続けてきた。
「よそのひものとはまったく違う」ことを、舌で知っていた。
とは言うものの、その味の違いがどこから来るのか、全く知らなかった。
そこで、現地に赴いた。


2025年9月25日、朝8:40 JR品川駅の新幹線北口改札に集合。メンバーは14名ほど。
品川から三島駅までは新幹線ひかりで約30分。そこから沼津へはひと駅。タクシーでおよそ10分。あっという間に工場に着いた。
この東京から「あっという間」の距離が、沼津が歴史的に日本一のひもの産地へ成長した理由のひとつだと後で知る。

まずは原料について。
鯵は九州沖の対馬の海域で4月から6月に穫れた旬のものを、まる一年分競り落とす。
「対馬201番海域のアジ、何トン」といった調子で九州の仲買人と電話でやり取りする。

アジは沼津魚類協同組合の大きな冷凍庫で冷凍保存し、必要な分だけを解凍して大事に使う。








塩分濃度は鯵は濃度15%前後、塩が効きやすい金目鯛やカマスなどの白身魚は13%前後。私たちが普段使っている沖縄の塩「しまマース」のにがりを含んだ美味しい塩と、富士山の伏流水でつくった塩水)を使う。
魚の脂ののり具合で人が判断して調節する。塩水は上澄みを繰り返し使い、塩と水道水(富士山の伏流水)を足しながら一定の濃度を保つ。こうすることで微生物の働きが、タンパク質を旨味に変える。➡これも旨味となってあらわれる。

さらに、塩を含んだ自然の井戸水の恵みのほかにも、
沼津では富士山の伏流水=水道水という贅沢。それが美味しいひものにつながる。



いわゆる市販品は、魚がくっついた状態でもかまわず熱風で15分程度の時短乾燥をしてしまうらしい。いわゆるタイパだ。奥和の場合は、時間をかけて1時間かけて涼風で干す。
➡ここが旨味のちがいになって大きな差がつく。




ざっとこれだけ見ても、工程ごとの細部のこだわりが旨味につながっていることが分かる。
沼津は富士山の伏流水を水道水とする豊かな水と、駿河湾の豊富な魚を活かして、平成元年に日本のひものの60%を生産する一大生産地となった。なぜそれが可能となったのか。奥村氏に質問した。

すると、その秘密は鉄道と立地にあった。沼津港のすぐ側まで、引き込み線という貨物専用の線路があり、沼津漁港と築地は東海道線でつながっていた。いまは緑道となっている。

奥村氏によると、前日に沼津で穫れた魚でつくったひものが、翌日には築地市場で競り落とされ、首都圏の大市場に流通していた。まだ冷蔵コンテナーや発泡スチロールなど無い時代に。それだけ沼津が築地市場に近かった。環境に優しいエコロジカルな鉄道による貨物輸送は世界中で見直されているが、明治から戦後高度経済成長期の手前まではそれが当たり前だった。
筆者は2010年頃からつい昨年の2024年まで、築地場外市場で魚を買うのを週末の日課にしていた。それゆえ往時の築地市場のバイイング・パワー(物を集積する力、売りさばく力)のダイナミズムを目の当たりにした最後の世代だ。それは日本中の海の豊かさの粋を集めたような、偉大な光景だった。
それが、市場の豊洲移転によってほとんど築地という土地から跡形もなく失われたことは言うまでもない。東京が失ったものの大きさを、いまさらながら沼津で思い知らされた。
だが、嘆いてばかりいられない。われわれはそれでも食べていかなければならない。食べることで「本物」をつくる人を支える。それが生活クラブのコンセプトでもある。
面白いことに、奥和と生活クラブの40年来のつきあいは、ひものから始まったつきあいではなく、なんと「ごみの分別」からはじまったご縁だと奥村氏は言う。
どういうことかというと、日本でごみ問題が深刻化した高度経済成長期、もっとも早い時期に分別収集を始めた沼津。それは沼津方式と呼ばれ、全国でも画期的な取り組みを学びに訪れた、生活クラブ組合員の坪井さんという女性が、当時の井出俊彦市長と、奥和の先代社長と意気投合したのがはじまりなのだという。
「本物のひものがないじゃないの」という痛烈な一言に、社長は一念発起、保存料などの食品添加物などを一切使わない、こだわりのひものづくりに立ち返ることを決心した。

それから40年が過ぎ、現在では全生産量の6-7割が生活クラブの組合員に提供されるひものが生み出される。そのことによって、「本来の自分たちの仕事に立ち返ることができた」と奥村氏の言葉が印象的だった。
奥村氏によると、従来のひもの業界はスーパーを前提とした「大量生産・大量消費・安く提供すること」が至上命題だった。「ひもの2枚で1パック(発泡スチロールのトレイ)で298円で売れる商品を作れ」とスーパーに言われたら、それに抗う方法などない。すると、包材や人件費を除いた残った卸値のなかで、一体どんな魚が原料になるのか。
こうした過当競争に巻き込まれ、最盛期に350軒もあった沼津のひもの工場はいまでは数十軒まで減ってしまった。
つまり日本のひもの文化を破壊してきたのは、「安いことにしか価値を見出さない消費者」だと言える。旅館の朝ごはんなどに出てくる鯵のひものが(筆者からみると)あまり美味しくないのも、おそらくそのような価格ありきの市販品の延長線にあるのだろう。
それに対し、生活クラブは原価の「積み上げ式」に変えた。「こういう品質のひものを作って欲しい」という要望がまず第一にあり、それに必要な原価を積み上げていく。そして組合員の「予約注文」で年間を通じて安定して販売できることから、一年分の原料を確保できるようになる。それらが「量から質」への転換を果たす上で欠かせなかったと奥村氏はいう。
その見返りに、われわれは一年を通じて新鮮で美味しく安全なひものが食べられる。沼津のタクシー運転手は、アンテナショップとレストランの和作へ行くと告げると「高級ひもの店ですね」と言った。その「高級」が地元でも「スタンダード」になってほしいと思う。
私たちがそうした本物のひものを日常的にいただくことができるのは、40年の信頼関係の賜物だ。「それがなかったら、今頃会社は廃業していたかもしれない」と奥村氏は言う。
沼津のひもの産業全体がこれからどうなっていくのか筆者にはまだ分からない。だが地域を牽引するリーダーがひとりいれば、それに追いつけ追いこせと地域は徐々に変わっていく。その意味でも奥和と奥村家の役割は大きいのではなかろうか。
直営店の「和助」で美味しいひものランチをいただきながら、沼津の自然の豊かさを感じる充実した旅だった。


(この取材は私も組合員である生活クラブまち港の自主企画に参加させていただいた。奥和のみなさん、幹事のFさん、Kさん、他の皆様にも大変お世話になり、ありがとうございました。)




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